2008年04月24日
チトーの生涯
さてこの方はどんな人生を送ってきたのでしょうか。
チトーは、オーストリア=ハンガリー帝国の一部だった、今のクロアチアの北西部、ザガリエ地方のクムロベツという所で生まれた。父親フラニオ・ブロズと母親マリア・ブロズの間の7番目の子供だった。フラニオはクロアチア人だったが、マリアはスロベニア人だった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロベツの小学校に入学し、1905年に卒業している。
1907年、のどかな田舎から一転して、シサックの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年、冶金工の組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニアの社会民主党にも加わっている。1911年から1913年にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働いていた。
1913年の秋から、徴兵により兵役に就いており、1914年5月には、軍の主催するブダペストのフェンシング大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。第一次世界大戦の勃発により、現在のセルビア・モンテネグロにあるルマ市に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、ペトロヴァラディン要塞に収監された。1915年、再びロシアを攻撃するために、中央ヨーロッパのガリシア地方に送られた。ブコヴィナでは榴弾砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシアの捕虜となった。
病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、チトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年の7月16日から17日にかけて起きたサンクトペテルブルクのデモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランドまで逃げたが、結局捕まり、ペトロパブロフスクの要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。1917年11月、シベリアのオムスクで赤軍に参加した。1918年春には、ロシア共産党への参加を申し込んでいる。彼の最初の妻は、ヘルタ・ハースで、第1子が1941年の5月に生まれている。
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